阪神教育闘争と民族学校の強制閉鎖
『阪神教育闘争』とは、開放直後の1948年4月、阪神地方の在日同胞が民族
学校を守るために繰り広げられた大衆行動のことである。1945年8月15日、日
本の敗戦とともに解放民族となった在日同胞は、植民地時代の皇民化政策によ
って朝鮮語や朝鮮文化を取り戻すために、各地で民族教育の取り組みを始めた。
日本の学校の教室を間借りしたり空き地を利用したりして作られた在日同胞の
民族学校は、1948年4月の時点で約600校あり、6万人の子どもが通っていた。
当時の「金ある者は金で、力あるものは力で、知恵ある者は知恵で」というス
ローガンは、在日同胞の民族教育にかける情熱をよく表している。
このような在日同胞の民族学校に対して、日本政府とG.H.Q.は強要な弾圧政
策をとった。1948年1月24日、文部省は、「在日朝鮮人の子女は日本の公立・
私立学校に就学しなければならない」「在日朝鮮人が設立した“朝鮮人学校”
は正規の学校として認めない」という通達と民族学校に対する閉鎖令を発令し
た。在日同胞は、各地で民族学校を守るための大衆行動を展開したが、特に
多数在住地域である大阪と神戸での闘争は大規模で、それに対する弾圧も熾烈
を極めた。大阪では当時16才の在日同胞の金太一(キムテイル)少年が警官隊の銃
撃により死亡し、神戸では戦後占領下で唯一の非常事態宣言が発令され、1,7
00名が逮捕・拘束された。
この『阪神教育闘争』の事態収拾策として6月4日、大阪府知事と同胞代表
(『大阪府在日朝鮮人教育問題共同闘争委員会』)の間で覚書が交わされ、民
族学校に一定の条件を付した上での認可と、公立小・中学校の課外授業におい
ての民族教育の保障が合意された。翌1949年10月、日本政府が全国各地の民族
学校を強制閉鎖(大阪では44校中40校が閉鎖)したため、同胞の子どもの大部
分が日本の公立学校へ通わざるを得なくなった。この時、子どもと保護者が民
族教育の機会を強く要求し、前年6月の覚書に基づいて、大阪府教育委員会が
給与保障する同胞の民族講師による民族学級が、府下30数校の小・中学校に開
設された。(以下「覚書に基づく民族学級」とはこのことを指す)。
阪神教育闘争の遺産としての民族学級は1950~70年代の苦難の時期を経なが
ら今日に残っている。私たちは、『阪神教育闘争』の事実と精神を忘れず、そ
の異義を今日の教育活動に生かすために、記念集会を毎年開催しているのであ
る。
民族教育促進協議会 主催 『阪神教育闘争46周年記念集会』資料より
| — | HANBoard Ver.3:阪神教育闘争と民族学校の強制閉鎖 (via nopiko) |